|
<被害者弁護人(弁護士)> 
刑事事件では、被害者側弁護人は必ずしも必要ではありません。捜査を始めて貰うにあたり「法の下に裁いて欲しい」と告訴するの
は被害者ですが、その後は国家(検察)対加害者の争いとなり、公の場で被害者を加害者から弁護する必要がないからです。
弁護士費用はバカになりませんから、被害者の中には自分で勉強し告訴する人が少なくありません。
弁護士に依頼する事により、加害者に被害者が望むような刑罰、正当な刑罰を課すことができればいいのですが、告訴不受理に
なったり、起訴が見送られたりする可能性もあるわけで、弁護士費用が完全に無駄になってしまう懸念も捨て切れません。
とは言え、被害者の意向に因りますが、被害直後から弁護士に事件解決の手助けを頼むことも一つの手です。それは告訴状作成
を依頼するという形のある目的もありますが、公判に至るまで、必要な手続きを段取りよく進めてくれたり、様々な場面でアドバイス
を貰えたり、警察・検察、裁判所に付き添って貰えるという利点もあります。金銭の問題を考慮しなければ非常に頼もしい存在とも
なり得ます。捜査、公判の記録を入手するのも弁護士にお願いすると簡単・便利でしょう。
※本当に頼もしいかどうかは弁護士次第ですが・・・
自力での告訴に自信がない場合は、警察・検察に相談する前の段階から弁護士に依頼する方が安心確実かも知れません。
なお、刑事訴訟部分では、弁護士費用の全てが自腹となります。刑事訴訟で身を削って、民事訴訟で取り返すというのも一つの
考え方ではあります。よくご検討されることをお勧めします。
なお、弁護士を雇うにあたって、いくつか金銭面(弁護士費用)での援助の仕組みがあります。
民事訴訟に限らず刑事訴訟に関する援助・扶助もありますが、状況はかなり厳しい模様です。
   
<弁護士を選ぶ基準は?> 
これは結構難しい問題で、同じ弁護士といえどもピンキリです。
刑事訴訟と民事訴訟、異なる弁護士でも問題はありませんが、同じ弁護士に一貫して頼んだ方が(刑事訴訟→民事訴訟という
流れも考えて)、事件・訴訟の流れの把握などの観点から何かと好都合だと思います。
(逆に言えば、刑事訴訟での腕前・やる気を見て、後を考えるというやり方もあるわけですが)
弁護士には得意不得意分野があります。
2000年10月になって弁護士のコマーシャルが解禁されましたが、まだまだ目にする機会は多くありません。
これらにより、余計に彼らの事について分かり辛いのかもしれません。
「国立図書館へ行くなどして、過去の事例を見て、勝訴している弁護士に依頼する」という意見もあります。
残念ながら私にはその様な経験がありませんので、その詳細については存じていません。
※同類の(民事)訴訟で勝訴し、多額の賠償金を勝ち取った弁護士に相談に行ったが、「実際に会ってみると満足のいく対応
をしてくれず、その上、性犯罪自体に対する理解に欠けていてがっかりした」という経験談も耳にしています。
「検察官上がりの弁護士の方が顔が利く」などという意見を聞いたこともあります。
確かに「元同僚がいて話が通じやすい」くらいのことはあるのかも知れません。しかし現実的に考えて、単純に
検察官上がりの弁護士の方が有能で、勝訴を勝ち取りやすいなどと言うことはあり得ないと思います。その弁護士の腕次第。
弁護士が元上司だからということで検察官の判断が変わる?そんなことが許されるはずも通じる訳もありません。
※検察官上がりの弁護士に相談に行ったが、「事件の詳細を訊かずして簡単に訴訟の結果を推測する(「勝てますよ」などと
言う)し、依頼するのかしないのかはっきりして欲しいなどと詰め寄ってきた」という経験談を聞いたこともあります。
私が考える弁護士選びの基準は・・・
・ 性犯罪に対する認識 (強姦神話を少しでも支持するような言動がないか)、、、、 あれば論外です!
さらに、被害者の望まざる性行為は、全て強姦であるとの認識であること
刑法では、力や言葉の暴力(脅迫)こそが強姦を決定づける要素のように書かれています。
それをそのまま支持するようでは、、、、 お話しになりません!
・ 加害者を公訴まで持っていける可能性について、簡単に「大丈夫」とか「ダメ」と言い切る弁護士はダメ
事件の内容にも因りますが、多くは安易に結果を断言できる犯罪ではありません。
想定されるこれからの困難(争点)を指摘でき、その上で最善の努力を約束してくれなければ信用できません。
・ PTSDやASDに関する理解と知識があり、それらを「傷害」として認識していること
日本では長らく「傷害」=「体の傷」という判断が為されてきました。心の傷は事件との因果関係がはっきりしないなどの理由
の他、現在に至っても裁判で通用する判断基準が示されていないことにも因ります。嘆かわしいことです。
しかしやっと最近になって、法曹関係者を中心に、心の傷を傷害と認める趨勢になってきていているのは事実です。
強姦神話: 望まざる行為ならば被害者は必死に抵抗するはず。抵抗しなかったのなら和姦と思われても当然。
露出度の高い衣類を身につけている女性は襲われやすい、襲われても仕方ない。
部屋まで付いていった被害者が悪い。 など
弁護士選びに限らず、これらの問題が性犯罪被害者を捜査段階から苦況に陥らせたり、身近な人間からの心ない言葉となって被
害者を襲っているのだと思います。
正義感に燃え、被害者を全面的にフォローする弁護士が多数なのでしょうが、弁護士も商売です。刑事訴訟に限定すれば、被害者
弁護人には基本的に勝ち負けはありません。精一杯の証拠を集めて、あとは検察の判断/公判での審判を待つだけです。
加害者(被告人)弁護人は法廷で直接検察と戦えますが、被害者弁護人は公訴段階では直接手出しできないからです。
どれほど真剣に取り組んでくれるか、しっかりと見極める必要があると思います。
人生色々、弁護士も色々、考え方も色々・・・ 「行列」を見ていればよく分かりますよね。
加害者側弁護士には、起訴猶予、不起訴処分(示談)を勝ち取るという”勝ち負け”が厳然として存在します。
それによって弁護士費用計算されるのが常識です。
(”勝ち”で得られる部分は、着手金+成功報酬の成功報酬部分で、一般的に着手金と同等以上の金額になります)
刑事訴訟の結果が民事訴訟にも反映されるわけですから、少なくない弁護士が、民事訴訟での成功報酬を見込んで刑事訴訟に
臨むと思います。そういう意味からも、刑事/民事とも同じ弁護士に依頼するのがベターだと私は考えています。
私たち依頼者はお客さま。美容室と同様に、弁護士は依頼者が「選ぶ」ものです。
弁護士事務所の名声だけで選ぶものでもありません。女性弁護士だから女性の味方とも限りません。
「弁護士だからみんな偉い」という先入観を払拭して、見極めていただきたいと思います。


弁護士バッヂ(徴章)のデザインの意味は・・・
中心の天秤は、「公平と平等」の象徴。
周りのひまわりの花は「自由と正義」。
で、その意味は「いついかなる場合にも、自由と正義を求め、公正と平等を期す」ことだそうです。
しかし、請け負った依頼を全うするためなら、その胸の徴章の理想/理念を平気で踏み倒す弁護士がいるのも事実です。
被害者側弁護人になろうとするにも関わらず、商売に奔る弁護士がいないわけではありませんし、
加害者側弁護人となれば、更に卑劣だと言わざるを得ない弁護活動をすることも珍しくありません。
当然、それらは全て法律の範囲内なのですが、法律を知っている彼らだからこそ、一般人の私たちから見れば
姑息だとしか思えないこと、法の目をかいくぐるようなことを、平気でやってのけたりするのです。
自身の弁護人には、公正と正義を旨とする弁護士を選んでください。
一方、犯罪者の弁護人には、公正や正義を期待しないでください。
<被疑者(被告人)/被告弁護人>
刑事司法に対し、「被害者救済の意味も含まれる」と考えることが大きな勘違いであることは別のページに書きましたが、
弁護士という職業人に対し、「その全てが公明正大である」と考えるのも間違った思いこみです。
光市母子殺害事件の被告人弁護団の代表が、その高裁差し戻し審判決と時を同じくして、弁護人が関わった過去の事件で
自らが有罪判決を受けたのも記憶に新しいところです。
以下に弁護士の仕事について、東京高裁がそのガイドラインと呼べる判断を下した例を記載し、
被疑者(被告人)/被告弁護人が事件後、被害者を更に愚弄するような言動を行う(行える)根拠について
説明を加えます。
東京高等裁判所平成9年(ネ)第2459号 ・・・ 民事訴訟における被告側弁護人の行為に関する判断
(弁護人の不法行為否定)
我が国の民事訴訟制度は、当事者主義及び弁論主義を基本理念としている。訴訟制度の目的は、事件の真相を解明し、
私的紛争の適正な解決を実現することにあり、法曹の一員である弁護士の訴訟活動も、この目的の実現に資することが
要請されることはいうまでもない。しかし、当事者から訴訟代理を受任した弁護士としては、委任者たる当事者のために、
その立場に立って主張・立証活動を尽くすべき責務を負うのであり、当事者双方の代理人が当事者主義と弁論主義の下に
その活動を尽くすことによって、右の目的の実現が図られることが期待されているのである。そして、民事訴訟は、
私的紛争を対象とするものであることから、必然的に、当事者間の利害関係が鋭く対立し、個人的感情の対立も激しくなる
のが通常であり、したがって、一方当事者の主張・立証活動において、相手方当事者やその訴訟代理人その他の関係者の
名誉や信用を損なうような主張等に及ばざるを得ないことが少なくない。しかしながら、そのような主張等に対しては、
裁判所の適切な訴訟指揮により是正することが可能である上、相手方には、直ちにそれに反論し、反対証拠を提出する等、
それに対応する訴訟活動をする機会が制度上確保されているのであり、また、その主張の当否や主張事実の存否は、
事案の争点に関するものである限り、終極的には当該事件についての裁判所の裁判によって判断され、これによって、
損なわれた名誉や信用を回復することができる仕組みになっているのである。
このような民事訴訟手続における訴訟活動の特質に照らすと、その手続において訴訟代理人がする主張・立証活動に
ついては、その中に相手方やその訴訟代理人等の名誉を損なうようなものがあったとしても、それが当然に名誉毀損として
不法行為を構成するものではなく、相当の範囲において正当な訴訟活動として是認されるものというべく、その限りにおいて、
違法性を阻却されるものと解するのが相当である。もとより、当初から相手方の名誉を毀損する意図で殊更に虚偽の事実を
主張したり、訴訟上主張する必要のない事実を主張して、相手方の名誉を損なう行為に及ぶなどの場合は、訴訟活動に名を
かりるものにすぎないから、その違法性の阻却を論ずる余地はない。しかし、その活動が、当事者の委任に基づき、その
訴訟上の利益を擁護することを目的としてされる場合には、その主張するところにつき相当の根拠があると認められる限り
において、広くその正当性が認められるものというべきであり、そして、右に述べた訴訟活動の特質に照らして考えれば、
その相当性が認められるためには、その主張するところが裁判所において認容される高度の蓋然性の存することまで要求
されるものではなく、裁判所において認容される可能性があると考えるべき相当の根拠の存することをもって足りると解する
のが相当である。
要約すると・・・ (以下は私の取り方による説明です)
・ 弁護人は依頼者(犯罪者)の代弁をするのが仕事であるから、依頼者の正当性を主張するためなら、被害者に対する多少の
名誉毀損と思われる言動程度は当然弁護活動の範疇であり、必然性を持っていると考えるべき。
・ 例えそのような行為があったとしても、裁判所による是正(止めさせたりすること)が可能だし、被害者側には反論できる機会も
手段も確保されているのだから、訴訟中の多少の誹謗中傷を
名誉毀損として取り上げたり、またそれに拘る必要などない。
文句があるなら反論すれば良いだけのことだ。
・ 被告側弁護人がそのような行為を行ったとしても、それが虚偽の内容ならば、それは裁判所の判断/判決に反映され、
結果として被害者は自らが求める結果を得ることになろうから、
そのことをもって被害者の名誉や信用は回復される。
結論が出るのだから過程に拘る必要などない。過程での言われなき誹謗中傷に対する恨みなど、どうでも良いではないか。
・ 被告弁護人の言動が、被害者に対する侮辱などの不法行為と捉えるのは、事件に無関係、不必要に虚偽の事実を繰り返す、
または被害者の名誉毀損を主目的とした主張である場合などに限られる。
弁護士が被害者に対して行う ”多少の誹謗中傷” には、
”証拠がないからバレない嘘、作り話”も
現実的には含まれてきます。「公正」の正反対です。
「(少なくても民事訴訟においては)弁護士に正義は求められていないし、求めるべきものでもない」・・・
私には高裁(国家司法)がそう言っているように思えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
訴訟途中の犯罪者弁護人の被害者に対する誹謗中傷が、例え全く言われ無きものであっても、裁判所が「全てを含んで
結果を出すのだから、それで良いではないか。途中のことは言うな。」というのですから、弁護士もかなり思い切った誹謗中傷を
行え、嘘八百を並べられるのだと思っています。
勿論、この高裁判断の意図するところも理解してはいますが、被害者側とすれば納得しがたいものがあります。
裁判中に不実の誹謗中傷を受けるのです。
そして、それは一般傍聴人のいる公の場で為されるのです。
そのどこまでが真実なのか、通い詰めていない傍聴人には判断できません。
たった一回の裁判(口頭弁論)を傍聴しただけにもかかわらず、「被害者はそんな人間なんだ」などという印象を持たれてしまう
可能性だって否定できません。
たとえ最終的に「名誉や信用」が回復されたとしても、「悔しさや屈辱感」が払拭される訳がないのです。
日常生活中なら名誉毀損で訴えることも可能だが、訴訟中なら合法、それが判事の面前でも取り上げても貰えないのです。
「それが訴訟だよ」と言われれば、それまでなのですが・・・。
※実際の民事訴訟における、弁護士の弁護活動の実体については「闘いの日々−民事訴訟」に記しています。
ただし、記載のような弁護活動をする弁護士ばかりではありませんし、「闘いの日々−民事訴訟」自体が、私の怒りを根元に
綴っており、少々飛躍しすぎの部分もあるかと思いますので、その点ご留意の上参考にしていただければと思います。
|